【ダブルダッチのある生活】vol.6 北原先生

ダブルダッチのある生活 – vol.6 北原先生

ダブルダッチと関わる人生を楽しむ
-協会設立20周年 特別取材-



 JJRU岡山県支部(旧:岡山県ダブルダッチ協会)設立から20周年。この度スペシャルゲストとして北原和明さん(通称:北原先生)のお話を伺います。北原先生は本部組織である日本ジャンプロープ連合評議員であるとともに、実質的に日本で2番目に都道府県ダブルダッチ協会を立ち上げた先駆者。岡山県を中心としたダブルダッチ普及に大きく寄与され、岡山大学ダブルダッチサークルJumpingCatsとの関わりも深い存在です。小学校教員から転職されて大学教員になった北原先生の、今までのダブルダッチとの関わりについて、お話を伺ってみました。古参のダブルダッチャーや、ダブルダッチ好きも気になる、北原先生しか知らない歴史について深堀りしています。

 ダブルダッチと関わる中で、様々な角度の楽しみ方を見つけられた北原先生が、大切にしている想いとは?



ダブルダッチに出会ったきっかけ

 私がダブルダッチに出会ったのは、1993年。当時は、神戸市内の小学校教員として働いていました。勤続して2年が経った頃、後輩として同じ学校に配属された土居卓さん(旧:日本ダブルダッチ協会/兵庫県ダブルダッチ協会 理事)との出会いがきっかけで、ダブルダッチと関わる事になります。土居さんの配属された小学校が体育の研究校となっていたため、非常にエネルギッシュな彼は、縄跳びに関して積極的に研究していました。
 そんな彼が、「リチャード・センダリという人が縄跳びのワークショップを開くらしい」と情報を聞きつけ、私を誘ってくれたのです。そのワークショップでは、ワイヤーロープを使ったダブルダッチのデモンストレーションが行われており、私はその場で初めてダブルダッチという競技の存在を知りました。この出会いは偶然であり、私にとって大きな衝撃でしたが、これが後の人生を変えるきっかけとなりました。

 初となるダブルダッチイベントの参加は翌年。当時、ダブルダッチの全国的な広報が東京中心に行われていた中で、大阪城ホールでイベントが行われると聞きつけた土居さんに連れられて参加したのです。芸人のナインティナインさんがメインMCで、ホール中心のステージでダブルダッチがどれだけ跳べるか、のようなイベント。土居さんが、「それに出ましょう!」と。今では、ダブルダッチイベントは経験者も多いイベントとなりましたが、当時は日本に入りたてのスポーツでしたから、初心者であふれていました。
 ホールの周りでは、参加者が「イチ、ニ、イチ、ニ」と掛け声をかけながら練習に取り組む様子が見られていたのですが、その中で所謂現在のスピードスプリントのように、グワァァァと跳ぶ、異次元なチームが既に居たのが印象的でした。(今後関係値を持つことになる、後の芦屋市のダブルダッチサークルFRONTIN(2002~))。優勝していました。)そこで私は、初めてジャンパーとしてダブルダッチを経験することになります。
 (取材後の確認にて判明したのですが、このイベント「オロナミンCスマイルアップフェスティバル Let’s ビートロープ」のプロデューサー・運営ディレクターは東京の福富さん(現:JJRU 副理事長)だったとのこと。ダブルダッチ普及初期の頃、元SMAPの木村拓哉さんが「やろうよ!ビートロープ!」と言い、ダブルダッチをするオロナミンCのCMがテレビで流れていました。)



日本ダブルダッチ普及委員会(現:兵庫県ダブルダッチ協会)の発足

 私がダブルダッチの組織に関わるきっかけとなるもう一人の人物が、荒谷さん(旧:日本ダブルダッチ協会/兵庫県ダブルダッチ協会 理事)です。荒谷さんは、芦屋市の小学校教員で、10歳程上の先輩。その当時は短縄の普及団体で活動をされており、東京の福富さんとも接点があって、「芦屋からダブルダッチの大会を作っていこう」と、1992年頃からダブルダッチの普及にも取り組み始めていました。日本で初めてダブルダッチの大会を作った方(の、はず)です。
 そしてこの荒谷さんと、土居さんが出会い、「日本ダブルダッチ普及委員会」が設立されることになりました。まだ全国的に見てダブルダッチの組織が無かったため、日本を掲げていましたね。

 その後、当時助成を受けていた笹川スポーツ財団に注目をしてもらい、1996年に上部団体となる「日本ダブルダッチ協会」が発足することとなります。そして発展的解消という形で、兵庫県から始まった日本ダブルダッチ普及委員会は、「兵庫県ダブルダッチ協会」として、日本協会の傘下に入ったんですね。私はそのタイミングで、兵庫県協会の理事となりました。初期役員には、私と荒谷さんや土居さん、そして今も兵庫県で縄跳びの普及活動に尽力されている木内友也さん(INF世界チャンピオン。当時高校生だった彼は荒谷さんの教え子でもあります。)が名を連ねました。現JJRU評議員の浅田さんが合流されたのは、そのちょっと後でしたかね。
 今でもはっきりと覚えていますが、第一回目の理事会は、神戸三宮のお好み焼き屋で行われました。いつも土居さんに連れられてダブルダッチに関わっていましたが、「北原先生、これから兵庫県協会の理事ですからね」と。その日から私は小さなダブルダッチ組織の役員になったんです。



当時のダブルダッチチャレンジと私の役割

北原先生の研究室にて
作成された人生の沿革を見ながらの取材

 時系列が前後しますが、協会発足の1年ほど前、普及委員会の時に第一回目の「ダブルダッチチャレンジ in 神戸」が行われました。1995年でしたかね。最初のダブルダッチチャレンジの関わりは、土居さんに連れられての参加から。当時RUN-D-CREWが教えに来てくれて、私の教え子達がMIKIさんからシャー(ターナーチェンジ)を習得したのを覚えています。
 以降毎年の開催会場となるのですが、場所はASICS所有のアシックスアトリウム。ASICSの方から「使ってみて下さい」と、今の8mmロープよりも一回り細いプロトタイプのロープを数セットいただいて、自分の学校に持ち帰り練習で使いました。まだASICSの青白ロープが出る前だったでしょうか。ちなみに、先ほどお話した店主が、荒谷さんの繋がりの、元アシックスの社員の方だったんですよ。ASICSさんにはその後、岡山でもご協力していただくことになっていくので、ご縁とは不思議なものです。 

  話は戻ります。協会発足後、荒谷さんが海外へ行かれたことで、土居さんを中心とした運営に変わり、必然的に私も頼まれ事が多くなっていきます。その大きな役割の一つが、ダブルダッチチャレンジの「得点集計」でした。当時の大会はADDL(アメリカンダブルダッチリーグ。フリースタイルやシングルス・ダブルス部門などがあり、世界各国から選手が集まるダブルダッチの世界大会。)のルールだったため得点集計は複雑で、回数と得点が等間隔でなく〇回で□点という仕様。当時の審判を経験された方は大変苦労されたと思います。私はエクセルが触れる方だったので、集計を任されるようになったんです。今思うと若い頃のダブルダッチとの関わりは、大部分がこの得点集計でした。笑
 そんな中、土居さんが5台のノートパソコンを調達してきて「効率的な方法を考えて集計を行ってみてください」と無茶を言ってくるわけですね。当時は、Wi-Fiのような無線通信はもちろんのこと、LAN環境も簡単に作れないため、複数台のパソコンがあっても、繋げることができないのです。ダブルダッチチャレンジは当初より、「当日来て跳べるようになって午後の競技会に参加できる!」ということをコンセプトとしていたため、事前のエントリーという発想はなく、むしろそこにポリシーを感じていました。そのため、入力も含めてどうすればうまくいくかを考えないといけないわけです。
 この試行錯誤の処理がですね、当時の外部関係者の方から非効率だと指摘されまして、それが悔しくて。「見返してやろう」と発奮し、そこから得点集計のシステム化に取り組み始めたんですよね。LANが無く、USBフラッシュメモリも無い時代でしたから、フロッピーディスクを駆使し、エクセルマクロのボタンワンクリックで、集計~元ファイル削除までいけるよう工夫したのですが、前例が無かったのもあって、当時ではかなり画期的なシステムが出来上がったんですよ。気が付けば、ダブルダッチが面白い…というより、むしろ「システムを創る楽しさ」にのめり込んでいました。こう考えると、非効率さを指摘してきた方には感謝ですかね…。その仕組みが稼働し始めて数年経った2002年頃、岡山に行くこととなります。



岡山への移住とダブルダッチの無い2年間

「なんで岡山へ行くんや!こんなに長くキャリアを積んできたのに!」
 この話を周りに公表したときの、第一声でした。岡山への移住目的は子育て。妻が岡山出身なのです。それまでの11年間は、神戸市内で教員として勤務し、それなりの立場や人脈も築いてきたので、業界人であれば当たり前の反応です。そんな中唯一、土居さんだけは、「岡山に行くならダブルダッチ協会を立ち上げてくださいよ!」と前向きな言葉で送り出してくれたことを、今でも覚えています。もちろん、当時の私は岡山にまったく人脈がなく、断ることもできました。
 一方で、土居さんだけが岡山移住への背中を押してくれましたから、すぐに「やります」とは言えなかったものの、前向きにとらえることにしたんです。岡山は妻の地元ということもあり、夫婦揃って小学校教員でしたから、採用試験の受け直しから始まりました。そのため、妻が先に岡山での試験を受けることに。そのため、妻が採用されれば、私は1年後に挑戦するという話で進み、無事に二人とも試験に採用され、岡山移住が確定したのです。


 そこから2年間は、とにかく人脈を広げていきました。今振り返ると全てが偶然のような出来事でしたが、妻が私よりも1年早く岡山に赴任しており、その関係でたまたま名の通った方に私の話が伝わっていたんです。「神戸で陸上(競技)を専門にしてたヤツがこっちに来るらしいぞ」と、私が赴任する前には体育関係の方々に知られていました。赴任当初は国体の絡みもあり、陸上の審判に呼ばれることが多く、月の休みはゼロ。なかなかハードでしたね。今考えると陸上関係の繋がりを絶つこともできたのですが、この繋がりが新たな繋がりを生むかもしれないと思い、「仲間を増やすためには自分からしがらみを切るようなことをしてはいけない」というマインドを持つようになりました。そうしているうちに、岡山県の体育研究組織に関わるようになり、幅広い人脈形成へと繋がっていきました。
 岡山に赴任して2年ほど経った頃、勤務校で二人の後輩(田辺さん他)に出会います。田辺さんは小学校の支援員として、もう一人は岡山大学の学生ボランティアとして、私の勤務校に外部から現れてくれたんです。新任教員の採用数が少ない時代、30歳を過ぎていましたが、私が一番年下の職場でしたから、すぐに二人は弟分となりました。この二人に声をかけたことがきっかけで、岡山でのダブルダッチ活動が始まり、「岡山県ダブルダッチ協会準備委員会」を立ち上げます。(まだ動きは無いですが、まずは形から入らないと、と思いまして。)



様々な出会い岡山県ダブルダッチ協会の発足

 若い二人がそれぞれに人を集めてきて形になっていきました。長く協会に関わってくれていた荒崎さんもそのタイミングでしたかね。その時の練習場所は東山地区の山の上、県立成徳学校。田辺さんの以前の勤務校のご縁でした。現在、田辺さんは寮長を務められていますかね。そこから毎週日曜日に練習をするようになります。現在も続いている「日曜練」の起点、岡山大学ダブルダッチサークルJumpingCatsの初期メンバーは懐かしいのではないでしょうか。

 最初は私発信の基礎的な練習でしたが、徐々に「3チャってどうやってやるのかな」といったところまで発展していた気がします。(補足:「チャ」はチャイニーズホイールから来ているんだろうね、とのこと)活動に実体ができてきたので、ここでようやく「岡山県ダブルダッチ協会」と名乗って、私は理事長として活動するようになっていきました。2005年ですね。その時に県総合グラウンドの武道館で初めての「ダブルダッチスクール in 岡山」(後のダブルダッチチャレンジ。競技会までに至らなかったため講習会として実施。)を実施しました。正式な協会設立もこの頃。日本で2番目に立ち上がったのが岡山県ダブルダッチ協会なんですよ。こうした活動を元に、日本ダブルダッチ協会の理事に就任したのもこの頃です。発足当初から日本協会の理事をしていた土居さんが私を推薦してくれたんです。

2005年
岡山武道館初開催時のDDS in 岡山
初回は競技会まで至らず
体験会イベントだったとのこと
ジャンプする荒谷さん

 翌年からの「ダブルダッチチャレンジ in 岡山」には、人脈作りで得た繋がりから手伝いに駆けつけてきてくれた教員仲間もいました。そこからはどうやってダブルダッチを広めていくかに一生懸命で、繋がりを活用したり、岡山市の「みんなでチャレンジランキング in おかやま」にダブルダッチを入れてみたり…と色々動いてみていました。
 SNSもあまり発展していない時代でしたから、岡山県レクリエーション協会に登録してみたり。そうすると依頼が来るようになったんですよね。活動の実働部隊として「とびてんじゃー」を結成し、地域の学校や団体からの依頼があると、講習会をしに行っていました。(小学校からの夏祭りの依頼などに対応。YMCA(青少年育成および社会教育を目的とする非営利団体)からの依頼で、宇野小でダブルダッチをした時に、NPO法人TAPの古谷先生がいらしたんですよ。レク協のWEBページを見て石原さん(通称:イシコ)が来てくれたり。)



岡山大学ダブルダッチサークルJumpingCatsとの関わり

 依頼対応に奔走していた頃、遂にJumpingCatsと接触します。JumpingCatsと最初に出会ったのは、確か瀬戸町の体育館からの依頼で伺った時です。岡大生だった岡山県協会初期メンバーが「どうも岡大にはダブルダッチサークルJumpingCats(実は2002~)が存在するらしい」と存在を嗅ぎつけ、いつか出会えたらいいなと話していたところでした。瀬戸町の体育館からの依頼は、かなり大きな規模の講習会だったため、芦屋市のFRONTINに連絡して協力を要請したんです。(移動手段が無いとのことだったので、朝一で岡山市から芦屋市へ行き、6人乗せて岡山市へ戻り、依頼対応が終わったらまた芦屋市に送り返す…という当時は無茶な事をやっていました。)そのFRONTINが来るということを、mixiかなにかで聞きつけてでしょうか。瀬尾さん(JumpingCats元代表・現在世界を旅してインフルエンサーされています)をはじめとする、JumpingCatsの子たちも、瀬戸町の体育館に来てくれたんですね。そこが最初の出会いでした。


 そこから、JumpingCatsの子たちとは、次第に手を取り合っていくようになり、岡山県協会側が成徳学校の体育館まで車でJumpingCatsを送迎して一緒に練習して…という形に変わっていきました。そのうち、近隣の小学校体育館を使用するようになって、引き続き練習場所の提供を行う。こうしてJumpingCatsの「日曜練」が始まっていったかと思います。今の日曜練の場所となる2016年までは、毎週日曜日は練習場所に顔を出していたので、私と学生たちはお互いが認識している状態だったかなと。そんな私に義理を感じてくれたJumpingCatsの子たちが、ダブルダッチチャレンジ in 岡山を毎年手伝ってくれるようになり、現在の形となっていきました。

 出会った当初、それこそ2007年頃までは、ダブルダッチの派遣依頼があれば、協会実働部隊のとびてんじゃーが動き、メンバー調整が難しい時には2人で体験会に臨むこともありましたから、この出会いは本当に大きなものでした。JumpingCatsも依頼に協力してくれるようになり、お願いするとしっかり対応してくれていました。そのおかげで、岡山県ダブルダッチ協会の認知度も徐々に高まっていきます。2011年に安原さん(JumpingCats元代表・現在俳優されています。通称:ヤス)が入ってきた時はかなりインパクトがありましたね。髪の色が中心を境に2色で短髪でしたから、凄く個性溢れる子が入ってきたなと。当時は頻繁にJumpingCatsとの関わりがあったため、新入生歓迎コンパや大学祭の打ち上げに呼んでいただくこともあり、その時の子たちはかなり印象強く残っています。出会った時の見た目がかなり派手な分、就職活動や教育実習時期になると、皆さん髪が黒くなるので、ふと学校現場で会った時に誰かわからないことがあったり…。ちなみに安原さんには息子(次男)に家庭教師をしてもらう等、ダブルダッチを越えての関わりも沢山ありました。

 当時のJumpingCatsの子たちとは何代にもわたり、食事の席やイベントを共にし、岡山のダブルダッチの発展と青春を一緒に経験させてもらいました。JumpingCatsの10周年イベントにも参加させていただいたのですが、挨拶をさせていただく機会をいただきまして。その時、隣で瀬尾さんが「北原先生は、キャッツの父だな。」と、呟くように言ってくれたんです。私は、JumpingCats皆さんの協力のもと、岡山のダブルダッチ普及に、直向きに取り組んでいたので、そんな温かい言葉をいただけたことが本当に嬉しかったことを覚えています。皆さんがダブルダッチに一生懸命に取り組んでくれたからこそ、岡山県内で少しずつダブルダッチの認知度も向上していきましたから、「初期の頃から並走していただいて、大変お世話になりました。」という気持ちでいっぱいでした。
 その年の前後から、仕事の兼ね合いもあり、少しずつ学生との関わりが減っていきます。



全国に先駆けた若手への代替わり

 岡山県ダブルダッチ協会の活動を始めて数年が経った2014年。私にとって大きな転機が訪れました。熱心にダブルダッチの活動を行っていた船越さん(JumpingCatsOB、通称:アンディー)が、「自分にやらせてもらえませんか」と名乗りを上げてくれたのです。
 その頃、本業の教員活動に、より力を入れたいと考えていた時期でもありました。そんな中での船越さんの申し出は、ホッとしたような、嬉しかったような。そんな感情を抱きました。私の知る範囲だと若手への代替わりは初めてで、それを成し得たのは船越さんが歩み寄って来てくれたからこそ。そして彼に理事長を引き継ぎ、私は会長という新たな立場に移ることになりました。吉尾さん(JumpingCatsOB、通称:とーる 現支部長補佐)もその頃に合流しましたかね。若手が集まって、船越さんを中心に精力的に活動をしてくれていたため、船越さんにはすごく感謝の気持ちが溢れています。岡山県協会の誇れるところのひとつです。



大学教員への転職とその後

 上記新体制が長く続き、2021年に、日本ダブルダッチ協会の組織変更(日本ジャンプロープ連合(JJRU))に伴って、下部組織である我々も、日本ジャンプロープ連合岡山県支部へ組織変更しました。実働部分は支部長補佐に任せつつ、私は支部長として就任することになります。丁度その年、ご縁があって公立学校教員から、岡山理科大学教の育学部初等教育学科教員へ転職することとなりました。翌年(2022年)には勤務校である岡山理科大学に、ダブルダッチサークル「KICKs」が立ち上がり、そこで顧問を引き受けることに。(初年度は1人だったKICKsのメンバーも、今では6人まで増え、少しずつ規模拡大に向けて動いています。)

 大学教員の立場となり、そこからは社会貢献事業の一環や研究材料として、ダブルダッチと、より向き合うようになっていきます。初心者入門として、ダブルダッチが楽しめるようになるまでのメソッドは確立できていた一方で、技術を発展させていくメソッドについて触れる機会が無かったため、研究出来る材料は無いものかと思っていたところでした。そんな中、夏の大会「Double Dutch Delight South 2022」のキッズ部門「Next Heroes South 2022」が初開催され、弊支部の吉尾さんが運営するダブルダッチスクールSTEPより出場したチーム「STEP CREW」が、圧巻のノーミスパフォーマンスを披露したんです。聞くと、初心者の子供たちをたった4ケ月半で堂々たるステージパフォーマンスが出来るまでに導いたとのことでした。まさに気になっていた研究材料が目の前に現れてくれたんですよね。
 その指導方法に大変興味が沸き、関係者同意のもとで、練習期間中の指導方法やパフォーマンス作りの全て、また現在の指導に至るまでに身につけた本業やダブルダッチ上での能力等を聞きながら、まとめた内容を学会に論文寄稿(※下記リンク参照)するといった、面白い取り組みも行いました。初期の頃とはダブルダッチとのかかわり方が形を変えてきていますが、こうしてまだまだダブルダッチに関わる活動をしております。
 
 ※「ダブルダッチパフォーマンス指導者に求められる資質・能力の明示化に向けて」



設立20周年の節目と今後について


 現在、私たちJJRUはダブルダッチがオリンピック種目に登録されることを目指し、競技としての地位を確立させる取り組みを進めています。ダブルダッチは「勝つこと」を目指したチャンピオンシップスポーツ(優勝者を決める大会)としての楽しみ方だけじゃなく、表現やレクリエーション、交流の手段としても豊かな可能性を持っています。そうした、勝敗を超えたところにある「ダブルダッチの魅力」はまだ未知の領域であり、どんな未来が広がっているのかなとワクワクする自分がいます。

 そのダブルダッチと出会い、この世界に身を置いてから、気がつけば長い年月が経ちました。岡山での活動も、20年を迎えようとしています。今までの活動を一言で表すのであれば、まずは「ありがとうございます」ですかね。現役で活動されていらっしゃる方々で、私と関わりが無い方に対しても、「ダブルダッチに関わってくれてありがとう」という思いがあります。「続ける」ということと、「人の縁は自ら切らない」というポリシーで動いていると、ふとした時に発生するチャンスに気が付くことが多いのです。その結果、ありがたいと思える様々なご縁との巡り合わせがあり、人間関係や組織にも恵まれたのかなと思っています。
 大学卒業以降は教員一本の人生だったため、こうした教員外の組織・人間関係を知る機会というものは、自分の中の世界観の広がりといいますか、大きな社会経験をさせてもらえているんだなと感じることが多くありました。振り返ると30歳を過ぎてから、リーダー的ポジションで立ち回り始めて二十数年、世代交代もありました。続けてこれたのは、仕事上では関わりのない方々との繋がりが増えて、常に楽しみ、ワクワクしたからだなと。いわゆる「人生の中での遊び」とか「楽しみ事」という表現が近いかもしれないですね。このタイミングで一度、自分のダブルダッチ人生を振り返らせてもらえて、こうしたきっかけにも感謝しています。そのうち私が組織のトップから退任したら、その後はどんな楽しみ方があるかな、と今後にもワクワクしています。ひょっとすると、原点回帰があるかもしれませんからね。



 プレイヤー(北原先生の表現されるところでいう「まわし組」)出身ではない北原先生だからこそ語れる、大変深いお話を伺うことができました。ご縁を大切にされている分、関わる方々一人一人とのエピソードも濃く、面白いお話ばかり。「そんなお話あったのか」や「あの頃が思い浮かんで懐かしい」と思われる方も居たのではないでしょうか。取材チームの古参メンバーでも知らない話が多く、歴史を語れる先生のお話は貴重なもので、点と点が線で繋がったような嬉しい気分となりました。
岡山のダブルダッチの根源である北原先生は、今でもバリバリ活躍されていらっしゃいます。お会いしたら是非「こちらこそありがとうございます」とお伝えしたいですね。

 岡山県に移住し、組織を立ち上げてから20周年、今後も岡山県支部は北原先生を軸に活動を続けます!
関係者の皆様も、引き続きよろしくお願いします。

ご確認の協力いただきました、福富さん・荒谷さん・浅田さん・木内さん・田辺さん、
そして取材に応じていただきました北原先生、ありがとうございました。
(2025.07 JJRU岡山県支部「ダブルダッチのある生活」チーム一同)

次回以降もお楽しみに!



vol.5<< >>vol.7

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です